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志賀重雄を偲ぶ

僕の恩師である志賀重雄先生が先日亡くなられました。享年82歳でした。オーストラリアに住んでいる友人からのメールで訃報の知らせを受けたとき、ショックで頭が真っ白になりました。

先生は新潟県の高田の生まれで、少年期を斎藤陶斎先生に陶芸を学びました。厳冬の中、素足で冷たい粘土をしもやけになりながらも一所懸命こねた厳しい体験を、何度も聞かされました。京都に移ってからは、近藤悠三先生に学び、当時奈良にいた富本憲吉先生の工房にも出入りし、割れた陶磁器の破片などをこっそり拝借した話なども笑い話として記憶に残っています。

1966年、38歳の時に渡豪。その後14年に渡り当時まだ陶芸が盛んではなかったオーストラリアで、日本の伝統陶芸を教えました。その時の生徒達は、現在オーストラリアの各大学や各種学校で教鞭をとっている方が何人もいます。またオーストラリアの「陶芸の父」とも云われたピーター・ラッシュフォース(Peter Rushforth)とも親交がありました。

僕が先生の工房を訪ねたのは、先生が日本に帰国してから約30年がたった頃です。先生は80歳の高齢になられていました。工房では片付け掃除はもちろんのこと、食事を作ったり、買い出しに行ったりとありとあらゆる身の回りの世話をしました。戦前の貧しい日本を経験されたからか、人にも自分にもとても厳しい方でした。

そんな生活の中でも、作業後に先生と飲んだ一本の缶ビールが今でも忘れられません。普通の缶ビールサイズではなく、試飲で配られるサイズの缶ビールです。それが毎日楽しみでしたし、格別にうまかった。そして先生のコレクションを鑑賞させてもらっては、それについての評論を聞くことも楽しみで、いつも五感をフル回転させて聞き入りました。

先生の言葉の中で、今でも鮮明に覚えている言葉が二つあります。一つは「大事なものから先に片付ける」ことと、もう一つは陶芸に関することで「陶芸は作品を焼くのではなく窯を焼く」こと。他にも沢山あるのですが、この二つが強烈なインパクトとして脳裏に残っています。

本来ならばすべて自分の胸に留めておくべきことなのかもしれませんが、先生の足跡をこうして書き記しておくことで、微弱ながら少しでも最期の餞になることを願います。先生が最後に望んでいたオーストラリアの地に帰ることができ、そしてそこで最期を迎えたこと、先生にとって幸せであったと僕は感じています。いつか必ずオーストラリアのシドニーの地に降り立って、先生にご挨拶に行きます。それまで待っていてください。

そして先生の想いを引き継いで、これからも一気精進していきたいと思います。
by lepote | 2011-03-01 23:55 | 私事 | Comments(2)
Commented at 2023-03-27 00:02 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lepote at 2023-04-07 09:45
> 菅野会樹さん

返信メール頂きましてどうもありがとうございました。

まさか志賀重雄先生の工房に出入りされていた方とは!そうです、先生は確かに東京都町田市の山崎に工房を構えられていて、私は定期的にそこを訪れて先生の半ば助手とまでいきませんが、先生が窯を閉じられる1年程の間の近辺の整理やお手伝いをしていたものです。

少し自分のことを紹介しますが、私はオーストラリアのメルボルン、バララットと6年半の間、学生生活を送り、地元の大学でセラミックアートを学びました。学生中は見聞きするものが全て新しいものばかりで、人生の中でも本当に充実した生活を送っていた時期でした。どうにかしてこれを仕事にできないかと模索しながら、少しずつ帰国の時を迎えることに不安を感じながら過ごしていた留学生活最終年に、日本に帰国して東京に窯を構えている陶芸家がいるということを知り藁をも掴む気持ちで門を叩いた、という経緯です。

先生の最晩年のほんの少しの時間をご一緒できた事は、私の人生の中でかけがえの無い本当に貴重な時間です。技術など未熟すぎて全く足元にも及びませんが、先生の意思を引き継いでいつか先生に良いご報告できるような作家になれるよう日々精進していきます。


最後に、先生が最後まで望まれていたオーストラリアの地を再度踏むことができて本当に良かったと思います。私もその一報を受けた時、心の底から嬉しさが込み上げてきました。


齋藤宏幸
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